東山ひがし(金沢城の城下町・茶屋街)・町並み

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写  真 備  考
東山ひがし(金沢城の城下町・茶屋街) 【金沢城】金沢城は加賀藩の藩庁、藩主居館が置かれた重要施設で、他藩の城郭と比べても大規模かつ、豪勢で格式の高い建物が数多く建てられました。江戸時代は石高によって養える家臣の数が凡そ決まっていた事から、100万石だった前田家の居城である金沢城の城下町には数多くの家老屋敷や武家屋敷、武家長屋が建てられ家臣達が住まいました。さらに、金沢城の防衛ラインを築く為、浅野川口(卯辰山山麓寺院群)と犀川口(寺町寺院群)、小立野台(小立野寺院群)と3箇所に寺町が設けられ現在でも70前後の寺院が存在し周辺には関係する家々が建ち並びました。当然金沢に住む武士をはじめ、神官、僧侶、それを支える関係者達の衣・食・住を賄う為、大消費地として多くの商人が集り、さらには北国街道(北陸街道)を引き込み物資の流通の拠点にもなった為、江戸や大坂、京都などの大都市に次ぐ人口となり多彩な文化、芸術が生まれ一大文化圏が形成されました。

【東山ひがし】−そのような中、裕福な町人や文化人が歌舞や和歌を嗜む文化が発生し、それらが行える施設が増える一方で現在でいう風俗店、当時は出合宿と呼ばれた遊女を囲う店も横行し加賀藩も何度も禁止令を出し取り締まりを強化しました。本来、それらの行為は茶屋として認められる施設で営業され、藩の許可が必要でしたが、加賀藩では風紀の乱れや治安悪化を恐れて、なかなか許可を出さなかった事から上記のように無許可、無秩序で営業され、元禄3年(1690)には加賀藩士(武士)4人が遊女19人を囲い出合宿を経営していた事が発覚し関わった多くの人々が処分されるという高崎事件が起こりました。

そのような経緯もあり、加賀藩では文政3年(1820)に東西2箇所に遊郭を設け、その区画のみ茶屋の営業を許可し、売り上げの一部を藩に上納させる事で藩の財政向上と、風紀の乱れ、治安の管理を行う計画を立てました。「東山ひがし」では以前の無秩序の町割を一掃し、改めて碁盤の目のように区画町割され中央の2番丁は道幅を広くして格式のある町並みを演出、慶応3年(1867)に編纂された「東新地細見のれん鏡」では茶屋数112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人と記載され大きく発展していた事が窺えます。

明治時代に入り主計町(国の重要伝統的建造物群保存地区)にも茶屋街が設けられ、ひがし茶屋街(東茶屋街)、にし茶屋街(西茶屋街)と合わせて金沢三大茶屋街と呼ばれ、ひがし茶屋街では豪商、文化人、にし茶屋街では一般庶民、主計町茶屋街は官僚、役人と利用する人が限られ、武士も当初は風紀上の問題から形式的には禁ぜられ、天保2年(1831)には重臣の嫡男がひがし茶屋街に出入していた事が問題となり廃止されたという歴史を持っています。

【東山ひがし・特徴】−「東山ひがし」で見られる茶屋建築は一般的な町屋建築とは異なり、軒の高さの制限が少なく、色彩が豊富なのが特徴で外壁もベンガラ色が多く、内部でもベンガラや群青色など多種多様で非日常空間を演出しています。特に「志摩」は江戸時代後期の茶屋建築の特徴を現在に伝える大変貴重な建物として平成15年(2003)に国指定重要文化財に指定されています。現在も東茶屋街には江戸時代後期から明治時代に建てられた数多くの茶屋建築が軒を連ね、このような茶屋町の町並みが残されているのは全国的に見ても極めて貴重な存在で東西約180m、南北約130m、面積1.8haが平成13年(2001)11月14日に名称「金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

東山ひがし(金沢城の城下町・茶屋街)
東山ひがし(金沢城の城下町・茶屋街)
東山ひがし(金沢城の城下町・茶屋街)
 |卯辰山山麓寺院群輪島市黒島地区主計町加賀東谷加賀橋立東山ひがし寺町寺院群総持寺祖院山中温泉金沢城
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