金沢城(長町・武家町)・町並み

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金沢城(長町・武家町)・町並み
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【金沢城】金沢城の前身である金沢御堂は天正15年(1546)に設けられました。当時、加賀国は一向一揆衆が権力的な領主を配して、事実上の自治が行われ、金沢御堂はその中心施設として整備されました。金沢御堂は寺院とは言っても現実的には城郭に近いものだったとされ周囲を深い堀や高い土塁に囲われ防御に適した境内が構築されたと思われます。天正3年(1575)、織田信長の北陸侵攻が本格化し、8月15日には越前一向一揆衆が壊滅に陥り、加賀国の南部も陥落しました。その後、加賀の一揆衆は頑強に抵抗を繰り返した為、膠着状態が長く続き、天正8年(1580)に本寺である石山本願寺が信長と和睦した事で大きく織田側に傾き、家臣である柴田勝家が遂に金沢御堂を落とし、形式上は一向一揆衆は平定された事になります。金沢御堂は勝家の家臣である佐久間盛政が城郭として改変、拡張し金沢城の原型が築かれます。しかし、天正11年(1583)に柴田勝家が賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れると佐久間盛政も捉えられ京都六条河原で斬首、変わって、金沢城には大恩ある勝家を見限り、勝ち馬に乗った前田利家が入ります。利家は金沢城をさらに拡張、整備を加え近代的な城郭へと変貌を遂げ、前田家の客将であるキリシタン大名高山右近が縄張りしたとも伝えられています。さらに、天正18年(1590)に秀吉の天下統一が完遂し世情が安定すると、跡を継いだ前田利常により文禄元年(1592)から金沢城の大改修が行なわれ5重の天守閣や複数の櫓が築造されさらなる拡張を行われました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは利長は豊臣家を見限り徳川方に転じ為、徳川将軍家に次ぐ122万石が安堵され加賀藩を立藩、金沢城は藩の主要施設として藩庁、藩主居館が設けられ城下町も再整備されました。

【長町・武家町】−長町は加賀藩の上級、中級家臣が武家屋敷を構える武家町として町割された所です。当初は加賀八家に数えられた長氏(元々は能登半島の国人領主で、能登国守護の畠山氏に従っていましたが、畠山氏が没落後は織田家を経て前田家に仕え、家臣ながら大名並の3万3千石の石高を誇ります。)が屋敷を構え「長町」の地名の由来となっています。現在も「長町武家屋敷跡」には野村家住宅(前田家直臣、野村伝兵衛信貞家、1千2百石、御馬廻組組頭など)や高田家跡(550石、長屋門は金沢市指定保存建造物)、大屋家住宅(江戸時代末期の武家屋敷の遺構、金沢市指定保存建造物・国登録有形文化財)、新家家住宅(旧中級武士の桑島家長屋門:金沢市指定保存建造物)、天野家住宅(前田家直臣、300石、長屋門) 、清水家住宅(金沢市足軽資料館)、高西家住宅(金沢市足軽資料館) などの武家屋敷や土塀(木羽板葺、黄土色)、長屋門、などが細い路地に当時の武家町の景観を作り出し雰囲気のある町並みを見る事が出来ます。長町1丁目、長町2丁目、長町3丁目、片町2丁目の各一部、約約7.7haが金沢市の景観地区「長町武家屋敷跡周辺地区」に指定されています。

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 |卯辰山山麓寺院群輪島市黒島地区主計町加賀東谷加賀橋立東山ひがし寺町寺院群総持寺祖院山中温泉金沢城
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