山中温泉(温泉街)・町並み

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山中温泉(温泉街)・町並み
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【山中温泉】山中温泉(石川県加賀市)は奈良時代の天平年間(729〜748年)、高僧として知られた行基菩薩によって発見されたと伝えられています。その後衰退しましたが、鎌倉時代に入り、当地の地頭として赴任した長谷部信連により再び源泉周辺が整備されています。山中温泉に境内を構える国分山医王寺は行基菩薩が源泉を発見した際に、温泉の守護仏として薬師如来を自ら彫刻し一宇を設けて安置したのが始まりとされ、温泉街と同様に長谷部信連が再興され、信仰が広がると蛸薬師(京都府京都市中京区:永福寺)、一畑薬師(島根県出雲市小境町:一畑寺)と共に日本三薬師の一つに数えられています。長谷部信連は以仁王(後白河天皇の第3皇子)の忠実な家臣で以仁王が平家打倒を画策した際も共に戦い、捕縛された後も忠義を貫いた為、平清盛はその意気を感じとり流罪に留めています。鎌倉時代に入ると源頼朝に従い能登国珠洲郡大家荘の地頭に抜擢され、後裔は長氏を称して能登国を代表する国人領主となっています(江戸時代は加賀藩前田家に従い加賀八家に数えられました)。山中温泉と長谷部信連の関係性を示す客観的な資料はありませんが、医王寺の境内には長く信連を武建霊神として祭る祠が設けられ(明治時代の神仏分離令を機に長谷部神社が創建)、長氏の家紋である九曜紋を掲げる温泉宿も複数存在する事から、草創十二氏とは長氏の一族や家臣の流れを汲む可能性はあるかも知れません。又、南北朝時代に能登半島で激しい戦乱が起こり当時の当主長九朗左衛門盛連がそれを避ける為に加賀国江沼郡塚谷保(山中温泉)に移り、建武2年(1335)には黒谷城(山中城)に入ったとされている事から、この間に上記の伝承が流布されたとも考えられています。

文明5年(1473)、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)で布教活動を続けていた蓮如上人は湯治を兼ねて大内峠を越えて山中温泉に来錫し、その際、菅谷村の理助が弟子となり法名教願として後に徳性寺を創建しています。又、世話人なった住民の為に御経を書いた際、茣蓙の上で書かれた事からその跡が残り「虎斑の御名号」として伝わり信仰の対象となっています。

戦国時代に入ると黒谷城(山中城)は一向一揆の拠点として機能し、永禄10年(1567)には朝倉義景の侵攻により焼き払われ、天正年間に再び一揆衆により再築されますが、天正8年(1580)に織田信長の北陸侵攻により家臣である柴田勝家が攻め立て落城しています。その際、山中温泉の温泉街も大きな被害があったと思われ、勝家より保護されています。

江戸時代に入ると、隣の山代温泉が歓楽街的に発展したのに対して、山中温泉は湯治場的な要素が強かったとされ、元禄2年(1689)に奥の細道で当地を訪れた松尾芭蕉も、情緒を楽しむ為に山代温泉を避け、山中温泉を選択したとも云われています。松尾芭蕉は事の外山中温泉を気に入り、9泊8日という長期間湯治を楽しみ、天下の名湯として全国的に知られていた草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に「扶桑の三名湯」として讃え、「山中や 菊は手折らじ 湯のにほひ」の句を残しています。江戸時代後期に温泉の功能の番付表である「諸国温泉功能鑑」でも「加州山中の湯」として列記されており、全国的にも名湯として知られた存在だった事が窺えます。

【温泉街】−山中温泉の温泉街は古く懐かしい印象を受ける町並みと、町づくり的な手法の元に明るい印象を受ける町並みが混在する温泉街です。温泉街の下には鶴仙渓と呼ばれる景勝地があり散策路が整備され、蓮如上人や松尾芭蕉の縁の地が点在しています。

山中温泉(温泉街)・町並み
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 |卯辰山山麓寺院群輪島市黒島地区主計町加賀東谷加賀橋立東山ひがし寺町寺院群総持寺祖院山中温泉金沢城
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