奈良井宿(中山道・宿場町)・町並み

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奈良井宿(中山道・宿場町)
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【奈良井宿】奈良井宿の集落的な発生起源は不詳ですが戦国時代には木曽氏又は三村氏の一族とされる奈良井氏が居館である奈良井城を築いているので、その城下町として整備されたと思われます。その後、木曽谷を掌握した木曽義在は天文2年(1533)、後に中山道の木曽路の祖形となる妻籠宿から新洗馬宿までの宿駅を定め領内の流通を確立、その際に奈良井宿も宿駅として定められられています。武田信玄が信濃国に侵攻しこれを治めると、軍用道として重要視し、武田家に従った木曽氏に命じて下諏訪宿、塩尻宿、洗馬宿、贄川宿、奈良井宿、藪原宿、福島宿の7宿を宿場町として整備させ伝馬制を敷いて流通の便を図っています。

天正10年(1582)に武田家が滅びると支配者が流動的となり、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで木曽義昌は豊臣秀吉に転じたものの、その後は、徳川家康に従い、天正18年(1590)に家康の関東移封に伴い木曽地方を離れています。その後は豊臣系の大名が当地の支配し慶長3年(1598)に秀吉が死去すると木曽地方の土豪は概ね徳川家康に応じ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍の主力である徳川秀忠が中山道を通過した際、奈良井宿に境内を構える法然寺を本陣として利用しています。慶長7年(1602)に正式に中山道が開削されると奈良井宿は改めて宿場町として整備されます。

奈良井宿は中山道の難所として知られた鳥居峠を控えていた事から多くの旅人や商人が利用し、さらに木曽檜などの工芸品を製作する職人が集められた為、南北約1キロ、東西約200mという宿場町としては有数の規模の規模を持ち、木曽路最大の宿場町として発展し「奈良井千軒」とも呼ばれました。奈良井宿は大きく、上町、中町、下町に分かれ、中心である中町には本陣、脇本陣、問屋などの主要な施設が設置され、宿場の両端にはぞれぞれ守護神(上町:鎮神社・下町:八幡宮)となる神社が勧請され山沿いに有力寺院(奈良井五ヶ寺:浄龍寺・長泉寺・大宝寺・法然寺・専念寺)が境内を構えました。上町と中町の境には「鍵の手」と呼ばれる枡形が設けられ、中町と下町の境には横水(沢)が境界線して明確に区分けされています。

現在でも数多くの町屋建築が軒を連ねていますが、特に奈良井宿の問屋を歴任した手塚家の邸宅(現在は上問屋史料館)は天保11年(1840)に建てられたもので、木造2階建、切妻、鉄板葺、桁行12.4m、梁間10.9m、江戸時代末期に建てられた現存する数少ない問屋建築の遺構で、奈良井宿を代表する町屋建築として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。奈良井宿は現在でも良好な町並みが残され「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準を満たしている事から面積17.6ヘクタールが昭和53年(1878)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

奈良井宿(中山道・宿場町)
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