小布施宿(谷街道・宿場町・商家町)・町並み

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小布施宿(谷街道・宿場町・商家町)
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【谷街道】谷街道北国西街道(善光寺西街道)稲荷山宿から分岐して北国街道(善光寺街道)の屋代宿、松代藩の藩庁が置かれた松代城下(長野市松代町)、須坂藩の藩庁が置かれた須坂陣屋町(須坂市)などを経て飯山藩の藩庁が置かれた飯山城下(飯山市)に至る街道です。所謂正式な街道ではありませんが、松代藩、須坂藩、飯山藩にとっては参勤交代の経路となり、飯山城下から越後の十日町(新潟県十日町市)までは十日町街道が接続していた為、日本海側から多くの海産物が各宿場や城下町などの消費地に運び込まれました。又、街道沿いの近郊には渋温泉野沢温泉などの名湯があった事から湯治客や、名刹である小菅神社の参拝道としても利用されました。須坂付近には草津温泉や上州高崎(群馬県高崎市)を結ぶ信州街道が分岐し、中山道を利用して江戸に向う場合は最短距離になる為、各藩の藩士や、旅人、商人などが利用しています。

【小布施宿】−小布施宿の集落的は発生は不詳ですが延徳元年(1489)頃に高梨氏が当地域を掌握し苅田城、二十端城、滝ノ入城などが築かれた事から城下町として整備されたと思われます。戦国時代に入ると武田信玄の信濃侵攻により高梨氏が没落しますが、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと織田家、同年に信長が倒れると上杉家の支援を受けた高梨氏が復権、しかし、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に移封になると高梨氏も随行し小布施の地を離れています。元和5年(1619)、広島藩主福島正則が幕府から許可が降りる前に居城である広島城(広島県広島市)の修築を行い、その後も幕府の勧告を十分に行わなかった事から50万石の大大名から高井野藩4万5千石の大厳封となりました。正則は家督を嫡男忠勝に譲り隠居して小布施で余生を過しましたが、忠勝が早世した為に藩主に復帰したものの2万石に減じられ、さらに正則が死去すると残りの2万石も取り上げられ福島家は没落します。小布施町にある岩松院は正則の菩提寺として境内には正則の霊廟が建立されています。

その後、小布施の地は天領や越後椎谷藩の飛び地として陣屋が設けられ、町の中心部は谷街道の宿場町として発展しました。又、小布施宿は千曲川舟運の拠点でもあった為、物資の集積場として多くの豪商を輩出し、かれらが大檀那として葛飾北斎や小林一茶などの文化人を呼び寄せた為、文化的にも発展しました。岩松院の庭園の池では毎年蛙合戦が盛んに行われ、それを見た小林一茶は「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」の句を残しています。又、小布施町は栗の産地としても知られ、「子どもらや烏も交る栗拾ひ」、「大栗は猿の薬禮と見へにけり」、「栗拾ひねんねんころり云ながら」など栗に関わる小林一茶の句碑が建立されています。小布施宿は明治時代中期以降、舟運業が衰退すると衰微しましたが、現在でも豪商達が建てた土蔵群が残され、それらを活用した観光地として整備されています。

小布施宿(谷街道・宿場町・商家町)
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