海野宿(北国街道・宿場町・養蚕町)・町並み

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写  真 備  考
海野宿(北国街道・宿場町・養蚕町)
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【北国街道】−北国街道は、佐渡島の佐渡金山(新潟県佐渡市)と江戸を結ぶ重要な街道として「三国街道」や「越後街道」と共に佐渡三道と称され、五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)に次ぐ格式とされました。北陸諸藩(加賀藩・大聖山藩・富山藩・高田藩・与板藩)だけでなくや信州西部の諸藩の参勤交代でも利用され、北国街道の屋代宿から分岐する谷街道からは飯山藩、松代藩、須坂藩の各大名、北国街道の宿場町があった上田城下からは上田藩、小諸城下からは小諸藩が利用し、追分宿で中山道に入り江戸に向かいました。又、日本海の海産物の信州内陸部までの搬入道や、善光寺や戸隠神社の参拝道としても利用され各宿場町も繁栄しています。

【海野宿】−海野宿の集落的発生年は不詳ですが滋野氏の分流とされる海野氏が平安時代から当地域を治め海野城を拠点としていた事から、その城下町として整備されたと思われます。現在海野城は鉄道の敷設などで失われていますが、海野氏の氏神である白鳥神社(木曽義仲の挙兵の地とも呼ばれ、海野氏が没落後は一族とされる真田家の氏神として崇敬庇護されました)や、菩提寺である興善寺(3代当主海野幸明が開基で幸明の墓碑が建立されています。)などが点在し往時の名残が感じられます。海野氏は天文10年(1541)に武田信虎、村上義清、諏訪頼重などから侵攻を受け大名家からは没落し、越後の上杉家を頼って当地を離れ、武田信玄の次男に海野氏の名跡を継がせています。天正10年(1582)に武田家が滅亡すると、武田家の家臣で海野氏の一族とされる真田昌幸が台頭し、天正11年(1583)に上田城を築くと、海野城下から民衆を集めた為、城下町としては衰退します。寛永2年(1625)に北国街道の宿場町に指定されると周辺の集落から民衆を集めて改めて海野宿として町割され宿場町として成立、ただし、隣接する田中宿とは合宿で、さらに格下の格付けだった為、問屋業は月の半分は受け持ったものの、本陣や脇本陣は田中宿の方に設置されました。ところが、寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大破した事から、本陣と脇本陣は便宜上、海野宿に移され田中宿が再興した後もそのまま定着しました(田中宿にも本陣と脇本陣が復活)。

【海野宿・特徴】−海野宿は利便性の良さから田中宿を上回る繁栄を見せ特に江戸時代末期以降は養蚕業に力を入れ越屋根やウダツ、出桁造り、海野格子のある独特の町屋建築が軒を連ねる独特の町並みが形成されました。海野宿は明治時代以降も引き続き養蚕業を主産業として発展しましたが、当時、鉄道の駅舎開設計画があったものの中止になった事から、養蚕業の衰退と共に海野宿も衰微しました。その為、大きな近代化の開発が行われず江戸時代後期から明治時代の町屋建築が数多く残される事となり、昭和61年(1986)には日本の道100選に、昭和62年(1987)には重要伝統的建造物群保存地区に選定され、現在は多くの観光客が訪れる観光地として知られています。

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