高田城(北国街道)・城下町・町並み

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写  真 備  考
高田城(北国街道)
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【北国街道】北国街道の定義は諸説ありますが、新潟県では概ね、北陸道の直江津湊(上越市)近くから分岐して高田城下(上越市)、荒井宿(妙高市)、関山宿(妙高市)などの宿場町を経由して関川宿(妙高市)に至り関川宿と上原宿、田切宿と二俣宿、松崎宿と二本木宿は合宿(2つの宿で1つの正式の宿場としての役割を果たした)。明確な名称は無く北陸の諸大名が利用する事から「北国脇往還」や、善光寺(長野県長野市)を経由する事から「善光寺街道」とも呼ばれていました。日本三大金山に数えられ、当時としては世界的にも有数の金を産出した佐渡金山から江戸に金を運ぶ街道として、北国街道は五街道に次ぐ格式を得て幕府からも重要視されました。参勤交代としては加賀藩(石川県金沢市)、富山藩(富山県富山市)、大聖寺藩(石川県加賀市)、高田藩(新潟県上越市)が北国街道を利用しました。

【高田城】−高田城は慶長19年(1614)に徳川家康の6男である松平忠輝によって築かれた城郭で、これにより高田藩60万石が立藩し藩庁と藩主居館が設けられました。高田城は平城で本丸を中心に二之丸、三之丸、北之丸を配したもので、親藩の大大名の居城として大規模でしたが、元和2年(1616)に忠輝が改易になると、概ね10万石前後の譜代大名が配され、大城郭を持て余していたようです。忠輝をはじめ、改易や入封の理由は問題がある大名が多く、高田藩には懲罰的な移封先だったと思われ、江戸時代初期には多くの大名が短期間に交代を繰り替えました。

【町並み】−明治時代以降の近代化により江戸時代の町屋は殆ど姿を消しましたが、北国街道沿いには日本海側の町屋建築の特徴の1つ「雁木」と呼ばれる私有アーケードが継承され独特の町並みを保持しています。雁木とは、建物の1階の軒や庇、2階の張り出し部分の下などに通路を設けて、私有地でありながら一般の人でも通れる事を指し、雪が公共の通路に積もり不通になっても「雁木」を利用すれば通行可能となり、連続性が求められます。

高田城(北国街道)
高田城(北国街道)
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